2007.06.02 Saturday
[ 東京タワー オカンとボクと、時々、オトン ]東京にもあったんだ
だらしのない、ええおっさんが、普通ならは気恥ずかしくできないであろうことを、人目を気にせずに、あけすけなほどに表現したオカンへの愛―――。リリーさんのこの素直な行動が、人々の忘れかけていた思いに火をつけたのではないだろうか。
でも、映画はオカンとムスコの話ではなく、やっぱ家族の物語なんだよね。それがはっきりとわかる、オカンとボク、そしてオトンの造形。まず原作より映画のオダギリ演じるボクは、テレビやラジオで知るリリー・フランキーに近い感じがした。小学時代の田中祥平や冨浦智嗣はちょっと可愛すぎる気はしたが・・・。
一人称による小説と、一人称であるが俯瞰的にもなれる映画との違いもあるだろうが、やはりリリーさんが指名した松尾スズキ氏の脚色が優れていたように思う。
ボクのナレーションには、リリーさんのポエジーな表現が活かされており、そしてイラストレーターや構成作家、絵本作家にDJと、ボクのマルチな才能も、きちんとスクリーンで登場している。
内田也哉子、樹木希林親子が演じたオカンも、いつでも息子の幸せを願い、それが「私」の幸せであるような。そんなシーンが数多く見られた。若かりし時の、年下のハイカラ男(寺島進)との出逢いも、やはり女性としてよりも、母性が勝ったという印象的シークエンスだ。内田也哉子がオカンの時は、息子と共に生きることで精一杯というか弱さがあったが、樹木希林にバトンタッチしてからは、デンとした存在で、母性”としての包容力が滲みでていた。ボクではなくオカンのもとに、平栗(勝地涼)、ホセ(辻修)、えのもと(荒川良々)や彼女のミズエ(松たか子)が集まってくる。それは磁力の中心のようで、そして独楽の芯のよう。オカンはみんなにとっての“東京タワー”のようなそのものだったのかも・・・。
そして、そんなオカンとムスコを、これほどまでに強いつながりで結びつけたのは、オトン(小林薫)の存在だろう。たまにしかムスコやオカンの前に現れないオトンだが、映画では2人以上に存在感が現れていたのではあるまいか。オープニング、キャラを象徴したような荒唐無稽な登場で幕をあけるオトン。ボクはオカンが教えられなかったことはすべてオトンから教わり、それで飯を食えているようなもの。エロもそう、イラストもそう。オカンもオトンがいればこそ、“息子を私がちゃんと育てにゃいけん”というような使命感も出ただろうし。
もともと最初の脚本は、四時間半ほどのロングバージョンで、削って削って今の2時間42分になったという。個人的には、オカンとおばちゃん連中とのハワイ旅行で馬鹿騒ぎするシーンは
ぜひ観てみたかった。たぶん。最初のヤツには、あっただろうし。
本作は、やはり原作とは少し趣が異なったように見える。先に述べた主役たちの人物造形からも感じるし、またボク、オカン、オトンが過ごした社会環境などの視覚的な印象からも感じる。貧乏な時代から、ゆとりのある生活へ。昔はムスコのため、今はオカンのために。オカンの入院費用など、生々しい言葉(金額)で語られる。生活が変わっても、お金にゆとりがないのだ。小説では夢物語のような親子愛も、映画では泥臭い現実もあわせて見せる。
なにはともあれ丁寧に撮っていく松岡監督の特長を理解したうえで、脚色した脚本家松尾スズキのプロ魂と、松尾スズキのエネルギッシュな猥雑さを取り入れながら、今までとケタ違いなバジェット作品でも自分流(品のあって、無駄のない)を貫いた松岡監督の執念が実を結んだ。お互いのないもの、お互いの持ち味が活かされた、これにつきますね。
■映画[ 東京タワー オカンとボクと、時々、オトン ]の公式サイト
でも、映画はオカンとムスコの話ではなく、やっぱ家族の物語なんだよね。それがはっきりとわかる、オカンとボク、そしてオトンの造形。まず原作より映画のオダギリ演じるボクは、テレビやラジオで知るリリー・フランキーに近い感じがした。小学時代の田中祥平や冨浦智嗣はちょっと可愛すぎる気はしたが・・・。
一人称による小説と、一人称であるが俯瞰的にもなれる映画との違いもあるだろうが、やはりリリーさんが指名した松尾スズキ氏の脚色が優れていたように思う。
ボクのナレーションには、リリーさんのポエジーな表現が活かされており、そしてイラストレーターや構成作家、絵本作家にDJと、ボクのマルチな才能も、きちんとスクリーンで登場している。
内田也哉子、樹木希林親子が演じたオカンも、いつでも息子の幸せを願い、それが「私」の幸せであるような。そんなシーンが数多く見られた。若かりし時の、年下のハイカラ男(寺島進)との出逢いも、やはり女性としてよりも、母性が勝ったという印象的シークエンスだ。内田也哉子がオカンの時は、息子と共に生きることで精一杯というか弱さがあったが、樹木希林にバトンタッチしてからは、デンとした存在で、母性”としての包容力が滲みでていた。ボクではなくオカンのもとに、平栗(勝地涼)、ホセ(辻修)、えのもと(荒川良々)や彼女のミズエ(松たか子)が集まってくる。それは磁力の中心のようで、そして独楽の芯のよう。オカンはみんなにとっての“東京タワー”のようなそのものだったのかも・・・。
そして、そんなオカンとムスコを、これほどまでに強いつながりで結びつけたのは、オトン(小林薫)の存在だろう。たまにしかムスコやオカンの前に現れないオトンだが、映画では2人以上に存在感が現れていたのではあるまいか。オープニング、キャラを象徴したような荒唐無稽な登場で幕をあけるオトン。ボクはオカンが教えられなかったことはすべてオトンから教わり、それで飯を食えているようなもの。エロもそう、イラストもそう。オカンもオトンがいればこそ、“息子を私がちゃんと育てにゃいけん”というような使命感も出ただろうし。
もともと最初の脚本は、四時間半ほどのロングバージョンで、削って削って今の2時間42分になったという。個人的には、オカンとおばちゃん連中とのハワイ旅行で馬鹿騒ぎするシーンは
ぜひ観てみたかった。たぶん。最初のヤツには、あっただろうし。
本作は、やはり原作とは少し趣が異なったように見える。先に述べた主役たちの人物造形からも感じるし、またボク、オカン、オトンが過ごした社会環境などの視覚的な印象からも感じる。貧乏な時代から、ゆとりのある生活へ。昔はムスコのため、今はオカンのために。オカンの入院費用など、生々しい言葉(金額)で語られる。生活が変わっても、お金にゆとりがないのだ。小説では夢物語のような親子愛も、映画では泥臭い現実もあわせて見せる。
なにはともあれ丁寧に撮っていく松岡監督の特長を理解したうえで、脚色した脚本家松尾スズキのプロ魂と、松尾スズキのエネルギッシュな猥雑さを取り入れながら、今までとケタ違いなバジェット作品でも自分流(品のあって、無駄のない)を貫いた松岡監督の執念が実を結んだ。お互いのないもの、お互いの持ち味が活かされた、これにつきますね。
■映画[ 東京タワー オカンとボクと、時々、オトン ]の公式サイト